情報は物語として、知識から再生成される。

いつもながら、多くの気づきをもらえる
友人ウェブより。

本などのメディアで得る「知識」と「情報」は決定的に違う、
ということ。

それらがどういう関係にあるかというと、
「知識」は「情報」を得るための足がかりに過ぎない、ということ。

ちょっと抽象的に言えば、「情報」には快楽が含まれるが、
「知識」には快楽が含まれない、ということ。

自分はいつも、世の中の情報(経験)+知識から
知識のエッセンスをメッセージとして
伝えようとBlogを作ってみた。

ランダムな知識ブロックを、
ちょっとした子ネタ系として出す。

その習慣を、日々のアウトプット・フィードバックに活かす。

ただ、ここでひとつ上記の引用文で、
「知識」には快楽が含まれない
ということに、ちょっとなるほどなぁと。

快楽をどう定義するかによるけれど、
エッセンスとして取り出したモノには、
改めて情報に戻す作業(加工・編集)が
必要なのかもなぁと。

つまり、実体験や経験をふまえて
知識のエッセンスを、物語情報として
再構成すること。

それは、表現やデザインというべきもの。

カクテルのような混ぜ合わせも、
リキュールというエッセンスだけじゃなくて、
見た目の色使いや、グラス、氷など
たくさんの要素がある。

そして、それを出すバーテンダーという人の存在も。
(最近は、寿司屋のカウンターも同様のリアル感がある

発し手が見えているかどうか。


その方法として効果的なのが 物語という表現 だ。
(上記の例では、ジムロジャースの旅行記を例に挙げている)


そうなると、最近、世に多く出始めている「日記」
という情報もかなり物語性の意味合いの強いものになる。

 普段のおしゃべり感覚のような、モノでも
 多くが蓄積されたことで見えてくるものがあるはず。

 ウェブで書くという行為が、情報を受け取り、読む
 という行為以外の影響力で、確実に
 日常のアンテナをかえていく。


知っている人がつくっている情報はそれだけで、
読み手の感じ方をかえる。
すでに、情報の物語化がなされていると
いえばいえる。

  が、知人の書く日記でもおもしろいものとそうでないものがある。
  これは、またかんがえよっと。


で、彼の事例

具体的にさっきの例から説明すると、

アイスランドの新年はまじで綺麗らしい」という「知識」をもとに
「実際にアイスランドの新年に恋人と一緒にに行ってみる」というのが「情報」なんじゃないのかな?と。

もしくは、

ウランバートルはIT先進国らしい」という「知識」をもとに、
ウランバートルIT技術者を発掘し、日本語を教えて日本に派遣しようとする」というのが、「情報」なのではないか?と。