言葉と呪い

いつもながら、バーチャル師匠からの引用。

「子どもはわかってくれない」(洋泉社)から。
テキストは以下にある。
本を読んで、ウェブサイトで参照できるというのはいい。
よいものは、アナログとデジタルで連動していくといいとおもう。

情報の加工性が増していく世の中なのだから。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/diary//yogiri/yg0111.html

ハラスメントという定義から、展開している。

単に「相手を不快にさせること」というのでは足りない、もっと邪悪な意味が込められている。

それは何だろうと考えていたら、いちばん近い日本語を教えてもらった。

「呪い」である。

「呪い」というと大仰に聞こえるかも知れないけれど、田口ランディさんによると、それはごく日常的に行われていることだ。

「呪いというのは、口という字が入っているとおり、口で行う。もともと呪いは相手を縛ってがんじがらめにして生気を奪い取ることなのだそうだ。いかにもおどろおどろしいが、こんなことは誰でもやっている。特に、男と女の間、親と子の間でよく見かける。

(・・・)呪いの特徴は、まず『意味不明の反復』に始まる。

呪いの言葉というのは明瞭ではおかしい。相手を縛るためにはまず不明瞭であることが重要なのだ。よって人は呪いをかけるために、不明瞭な反復を行う。理解不能だ。

なぜなら呪いは理解を嫌うからだ。理解されては呪いにならない。

『あなたのためだけを思っているのよ』『なにが気に入らないのかはっきり言ってよ』『おまえ俺をナメてんのか』『お願いだから私のことも分かって』『俺はお前のことだけを思ってやってるんだ』などは典型的な意味不明の呪いの言葉だ。この言葉を繰り返されても、相手は答えることができない。相手の答を封印しつつ、答えられない質問を繰り返すことで相手を呪いにかけているのだ。呪いの言葉をかけられた相手は沈黙するしかない。答えは最初から封印されているのだ。(・・・)呪いの目的は相手を遠ざけるためではなく、相手を縛るためなのだ。呪いを操る者は必ず相手のそばにいる。」(『根をもつこと、翼をもつこと』)

私はこれを読んで胸を衝かれた。

コミュニケーションできない人間関係というのは、ほとんどの場合、そういうかたちで展開する。答えることのできない質問を執拗に受けるという仕方で沈黙を強いられるときの不快感と疲労感はうまく言葉では言えないものだが、あれは「呪い」をかけられていたのである。

「 理解されては呪いにならない 」

これは、高校以前に自分が感じていたコトに近い。

教育という人の関わり方には、
可能性を引き出すことと抑圧する事が表裏一体
であるようにおもう。

他者に関わるというのは、それだけの影響力を
行使できる前提がある。

「ハラスメント」というのも、おそらく本来は「それにきっぱりと答えきることのできない種類の問いかけや要求を、身近にいる人間から執拗に繰り返されることによって、生気を奪われ、深い疲労を覚えること」という事況を指していたのではないだろうか。

「呪い」を受けたものの徴候とは「生気を失うこと」であるという「呪い」の定義は「深い疲労」という「ハラスメント」の原義と通じている。

だとすれば、「セクシャル・ハラスメント」という言葉の本質的な定義は、やはり単に「性的に不快な言動」というだけでは足りないだろう。

「立場上はっきりと『ノー』と言うことが憚られるような身近な人から性的な誘いや性的ないやがらせを執拗に受ける」ことが「不快」であるほんとうの理由は、その曖昧で意味不明の執拗な「問いかけ」に答えることができずに沈黙を強いられることで、どんどん生気を失ってゆく「生命の枯渇」にあるのではないのだろうか。