ポジショニングとマッピング−外在する個性と能力
内田先生はこういった。
学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。
古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所
である。
この考え方が、「考具」について考え始めた経緯で。
【 ▼ この辺が言いたいところ】
自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、
自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが
必要である。自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、
その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。
それが分からないものにマッピングはできない。マッピングが出来ないということは、主体性がもてないということである。
というのは、「マッピング」というのは、「自分がいる場所」、
つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、
「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。
学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、
「自分の位置を知る」ことが、おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を
知るためのたった一つの方法だからである。主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」
という覚知とともにしか成り立たない。そのためには「マッピング」が不可欠である。
そして、「マッピング」のための問いとは実定的な問い「私はどこにいるのか?」
「私はなにものであるのか?」「私は何ができるのか?」ではなく、「私はどこにい
ないのか?」「私はなにものでないのか?」「私はなにができないのか?」という一
連の否定的な問いなのである。学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。
自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを
「得る」ことのできる機会と条件について学び知ること、それが学校教育で私たちが
学ぶことのすべてである。それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。
それは制度である必要も、空間的現実である必要もない。
何ができるか?
ということよりも、何ができないかを自覚する場
そんな場をつくりたいなぁとおもう。
それは、なによりもまず自分自身のために。