時間とエネルギーと。
相変わらずこのテーマは不滅。
あまりに安全な日々が、なにか生きることへの緊張感
を失ってしまっているのではないか?という問いがあった。
ここまで、「生きる力」なんてものが問われるのはそれなりに、
問題意識があってのことだろう。
( 別に力がないとか、育ってないというわけじゃないとおもうけど。)
「モチベーション」なんて言葉が多用されるのも、
たぶん、今までは、満ちていた気の充実というかエネルギー
みたいなものが、上の世代からみた尺度として
変わってきているんじゃないなかと。
それは、「悩む」ことや「自己について考えること」という
エネルギーに転換しているというか、向けている方向が
社会変革や体制批判のようなものから、もっと内側の
心やその闇に向かっているような気がする。
( そこに、はじめに向かい合って表現した、村上春樹は、
背景としてユングやフロイトの「無意識」の自覚を持っていた。)
現代のそれ(生きる力の向いている先)は、
インターネットの掲示板に流れるテクストや、
チャットや携帯メールのやりとりに、エネルギー(それは、
時間も、思考も、それに派生するお金も)が費やされている
んじゃないかなとおもう。
日記を書いて発信したり、ウェブログをつくって表現することも。
昔は、旅だった。それに気づいて旅をする人もいる。
池澤夏樹さんは、
「何が起こるかわからない時に、危難があると承知の上で、
なぜ人は旅や冒険に出て行くのか」という問いから、
探ろうとした。
池澤さんの、「真昼のプリニウス」や「スティルライフ」にある
日常の時間感覚は、私たちが鈍感になっている感覚を、
目覚めさせる。
そこには、「今、われわれの日常はひたすら、危険を排除
する自動装置によって支配され、運営されている」という
著書、『母なる自然とおっぱい』の一文に集約されている。
私たちの生活時間は、社会が規定する。(『遅刻の誕生』参照)
私たちの社会が知らない、時間感覚や行動様式は、真木悠介の
『時間の比較社会学』で言及されている。
ちなみに、はじめの問いを池澤さんは、
「 時間というものが本来は、未知の強烈な不安と魅力を
讃えたものであったことを忘れまいという気持ち」がどこかにある
ということでこたえている。狩猟、農耕から、江戸、明治、現代以降
危難の時代を生きることを忘れるべきでないという気持ちが
あるのかもしれない。
生きるということを実感するだけの、
【 現実への集中力 】(と自分はよんでいる。「生きる力」が好きでない)
はどのように、養うのかということは、俺の天命や使命を知ることと
同義かもしれない。
旅への動機というところから考えて、
旅が生きることの、現実的なメタファであることを考慮して、
「今」という時間の意味についてさらに考えてみる。