カール・ポランニー 『経済の文明史』

:経済人類学というジャンルだそうだが。

本棚に眠っていたので、とりだそうとおもい、
読むの三度目の↓ページ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0151.html

 ポランニーは非市場社会では「経済が社会に埋めこまれている」と見た。古代社会では、親族関係・儀礼行為・贈与慣習などに、経済とは意識されない経済行為が財の生産と配分として動いているという見方であった。

。「一般的にいって、貨幣というのは言語や書くということとか、秤量や尺度に似た意味論上のシステムなのである。この性格は、貨幣の三つの使用法、すなわち支払い、尺度、交換手段のすべてに共通している」。
 ここで、ポランニーが貨幣と言語を同列に見ていることが鋭い光を放った。すでに貨幣の本質は、マルセル・モースが「貨幣として出動するトンガ」や「交換をおこす複合観念マナ」などを“発見”して、その贈与交換的な性格を指摘していた。「物が与えられ、返されるのは、まさしくそこに“敬意”が相互に取り交わされるからである」と、モースは『贈与論』に書いていた。ポランニーはそこに言語の交換的性格をかぶせてみせたのである。

 こうなってくると、経済の起源には言語にも見られるようなソーシャル・コミュニケーションの本質が関与しているという見方も成立してくる。
 別の見方でいえば、一見、貨幣を媒介にして商品を交換しあっている市場社会というのも、実はソーシャル・コミュニケーションの一形態だというふうにも見えてくる。

このテーマは、
金子の『ボランティア』でも引用されてた。

ポランニーは、経済関係の中に埋没してしまった社会を、
「意味ある全体」として、その本来の姿に戻したいと
主張している。

金子は、「社会を経済という平面で切り取らず、
球体としてとらえる」と表現した。

環境問題や国際問題をはじめ、多くのマクロの問題の
根底にある部分はなにかという問いは、

「経済的な価値観の制約の中で、
構築してきた世界の制度」であり、その限界であるように
おもう。

ポランニーをばしっとよみこんで、卒論のいい閉めに
したいのだが、結論に細々と書く程度になりそうだ。。。

このテーマは、長く長くできる話なので、
文化人類学をはじめ、モースの贈与論あたりから
また学びなおすとしようっと。
 
  以前の、「価値考」も参照。
  http://d.hatena.ne.jp/crypto/20031128

ついでに。