一方での快楽について

それに対して快楽は個人的なものである。

欲望は模倣的であるからそもそもその起源は私のうちにはない。だから、それが充足されたからといって、「私の内部」に充足感がゆきわたるということも起こらない。

模倣欲望の充足とは、欲望の対象が前景から後景に退き、意識されなくなるというだけのことである。私たちが欲望するものはすべて「それはもう欲しくなくなった」と言うだけのために欲望されているのである。

快楽はベクトルがそれとは逆を向いている。
快楽の対象がたえず意識に前景化されていること、それ自体が快楽の目的である。

快楽は何かの結果ではない。プロセスである。

快楽とは「快楽の追求」それ自体が十全な快楽をもたらすような活動のことである。

快楽を求める活動それ自体が快楽の完全な成就であるような活動が「自分にとって」何であるかを言える人間を私たちは「快楽の尺度」を持っている人間と呼ぶ。

快楽と欲望の充足を取り違えている人間にはおそらく快楽は訪れない。

個人のある程度「絶対的な」価値尺度として考えること。
これが、
心安らかになり、
豊かに、なり幸せになり、
やりがいや働き甲斐を感じて

という巷に横行する抽象的な言葉の
意味するところなのだろうと、理解する。

で、
・ 快楽はベクトルがそれとは逆を向いている。
・ 快楽の対象がたえず意識に前景化されている
・ それ自体が快楽の目的である。
・ 快楽は何かの結果ではない。プロセスである。
・ 快楽とは「快楽の追求」それ自体が十全な快楽
  をもたらすような活動のことである。

これは、「ボランティア」であり、
双務的な等価交換ではなく、
片務的な無償の提供という
石川九楊が言っていたことにつながる。

というか、本質的にこういう「快楽追求すること」
の自由を可能にした社会が「自己実現」を提供できる
んじゃあないかと。

このダイアリーだって、勝手気まま自由にやっている。
それが、欲望というシステムではなくて、
個人の「快」による、これからの新しい
コミュニティによる問題解決につながるのではないかと。

▼これからのコミュニティは、ひとりからはじまる
http://d.hatena.ne.jp/crypto/20031205#p1
ひとりの「快の追求」による、波及効果なんだろうなぁと。

▼ 発想キーワード
マザーテレサの行動規範
欲望の追求は、表面意識と外的な模倣
快楽の追求は、個人の価値尺度
 無意識や身体の共鳴


以前の価値考も参考に。
http://d.hatena.ne.jp/crypto/20031128#p2