快楽と欲望−才能を測る

才能は「アウトプット」で測るのではない。
その活動から引き出した「快楽の総量」で測るのである。
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自分だけの「快楽の尺度」を持っていない人間は「快楽」と「欲望の充足」を区別することができない。
快楽は本質的に個人的なものであり、欲望は本質的に模倣的なものである。

ここで大切なことは、「快(楽)と欲望」を区別する
ことである。

私たちは他人の欲望を模倣する。
私たちが何かを欲しがるとき、ほとんどの場合、その理由はそれが「他の人の欲しがっているもの」だからだ。
しかし、模倣欲望には終わりがない。

誰かが何かを欲しがる限り、その欲望は私たちに感染するからだ。

私たちが「持っていないもの」はそれこそ無数にある。その「どれ」が欲望の対象として前景化するかはそのつど完全に偶然的である。だから、原理的に、私たちの欲望は永遠に不充足のままである。

これを、佐伯啓思は「欲望と資本主義」で、
かなり前から定義していた。

バタイユは「過剰」という言い方をした。
欲望の充足という集合的なゲーム。