書くことについて:内田樹

kouguとしての書く[write]は、いままで
村上春樹、斉藤孝ほかやってきた。

で、また 内田樹 に帰着する。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/diary//2003/03.04.html

ウェブ日記にばりばりアップロードした文章の方が「テクストの目が」詰まっていて、原稿料をもらって書いている文章の方が「スカスカ」というのはどういうことであろう。

たぶん、日記に書くときは、どこに着地するかあてもなく書いているからだろう。

枚数制限もないし、時間制限もない。だから、どれほど変な方向に逸脱していっても、別に誰からも文句はでない。誰かに読んでもらうためというよりは、自分の考えをまとめるために書いている。優先的に配慮しているのは「私の書き物を批評的に読む私自身」というヴァーチャルな視座である。

しかし、寄稿したものというのは、とりあえず読者に気分よく読んでもらうということを前提にしているので、そういうコアな視座は営業上取ることができない。

一テクスト一主題で、最初に立てた論題について、結論めいたものを書かないといけない。

売文的原稿では「結論のようなもの」をとってつけたように付して「着地」するということになる。

しかし、つねづね申し上げているように、ほんとうに重要な問題については、軽々に「結論」を出すべきではないのである。

にもかかわらず「結論」めいたことをむりやり書いてしまうので、なんとなく「軽い」印象を残すのである。

というわけで昨日、自分の書いたものを通読した反省点として、今後は「結論のようなもの」はあまり書かないことにした。

落語のオチや短編小説と同じで、話は「不意に途切れる」というかたちで終わるのがよろしいようである。(ぶち)