▼ 考える→思索+時熟
思索は、人間本質への存在の連関を完遂する。
思索は、この連関をただ存在から思索そのものへと
委ね与えられた事柄として、存在に提供するだけである。
この提供するということは、思索において存在が言語へと
至るということに存する。(ハイデガー)
▼ 時熟
時間をじっくりかけて熟していくことでしかできないことがある
すぐに分かりやすい結果、成果がでるのではなく、
今自分のやっていることが
確実にいつかは熟して実るのだとかいう保証はない。
だから、「今」そのもののの密度を高めるということとその
ときどきの「今」を種を撒く行為そのものとすることを
同一化すること。時間はだれにとっても均質なものではない。
それはそれを生きる今そのもののあり方でまったく
異なったものとなる。
時熟というのは、若いときにもその「今」の密度があり、
歳を重ねてもその「今」の密度が可能となる
ということだろう。「いかに生くべきか」と「いかに死ぬべきか」は
時熟において同一化する。<<
* http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/siso/toposnote/toposnote12.htmlうん、なるほど。