切り売りされる能力としての労働とひとの居場所

crypto2003-12-13


個人の能力が、以前は「その人のもの」として
みていたものが多かった。
たとえば、縁とか人間関係とか。よくない
ゆちゃくのような、べったりした関係も
よくない面もあったけれど、それはそれで
うまくいっていた時代あった。

暗黙知とか雰囲気とか、
人と仕事をすすめる上で大事なものが
そこには含まれていて、機能していた。
(とおもう)

でも、雇用の流動化・大衆化のようにあ
多くの人が、ある一定の基準で定量化される
ようになったときに、「その人のもの」としての
能力(スキル)は切り売りされるマンパワーになった。

will skillでいえばwill測りにかけにくいけど、
それらも含めて一つの基準になってきてる。

で、

一隅を照らすとか
オンリーワンとか

を声高に言うのは、
独自性がなくなった個人のアイデンティティ
自分のより所としての出自や帰属意識
なくなってきていることへを暗に意味する
アナウンスだとおもう。

というわけで、

【ひとは自分の居場所をどこに求めるか?】

と、

【なぜ、(関われる場)を求めるか】

はニーズというよりも、もっと深いところに
つながるなにかがあるのではとおもう。

マズローの欲求の頂点である自己実現は、
もっと根底になにかがあるのではないかなと。

自分も省みつつ。


アメリカ人というカテゴリーは、
日本とはまったく違う帰属意識だ。

ということはまた書こうっと。