適当に書いてみると案外いろいろ出てくるもんだ。

フリーライティングを習慣化することに決めた。
もともと、おしゃべりがこうじて、書くことがすき
になったということもある。頭のなかに、ぐるぐると
まわる思考と言葉とイメージは、ほったらかしていると
不安になる。

なぜだろうか。

思考の大半は、堂々巡り。で、その少ないおつむの
堂々巡りの、一部でも出してみて初めてその、
小ささに気づく。

知らない土地に行くときには、地図を持つように、
自分の立ち居地とスケールを知ることとというのは、
ものごとを理解する上で、とても大事なことなのだとおもう。

 言葉は送ったときから、記憶という時間に育まれる。

 送信したメールのことを、相手が覚えていることがある。

自分は、送った後は、すっかり忘れていたようなことも、
相手には、その言葉が響いて残るのだ。

 ふと、書いた文章が、相手の考えていることに
ひっかかったときに、自分が意図しない理解を
相手に促していたのだということに気づく。

 言葉は、出したら、そこから新しく生まれる。

メールを送信したら、終わりではなくて、そこから
始まるものもある。

「言葉が育つ」っていう感覚。

でも、これはとどのつまり
人の気もちの問題なんですよね
ということに、知人の文章から気づかされるのだが。


昔、先生がいっていたことがいまさらわかるとか、

昔読んだ本のフレーズが、ふとした瞬間に急に
思い出されて、意味を理解する。

日々の「わからない・・」や「なんで?」の中で、
確実にわかるというか、「気づく」に向かって、
自分の中で、育まれているいる言葉がある。

だから、今日も、言葉の種を蒔いてみようとおもう。

時間という水に、花をさかせるのは、他ならぬ
言葉にふれている自分自身なのだ。

現代的なるもの

逆に、広い空間一人ずつ部屋が与えられると、
それぞれの空間を持ち始める。テレビを持ち、
だんらんの食事は、自分の部屋へ持ち帰り、
自分だけの空間を持つ。

インターネットとテレビがあれば、ひきこもる
ことだってできる。

他者とのかかわりをどういう形で、実現したいのかの
イメージを、個室に凝縮する。

個であることは、古来ではなかった概念だ。

つながりが、考えられるにつれて