言葉は送ったときから、記憶という時間に育まれる。

 送信したメールのことを、相手が覚えていることがある。

自分は、送った後は、すっかり忘れていたようなことも、
相手には、その言葉が響いて残るのだ。

 ふと、書いた文章が、相手の考えていることに
ひっかかったときに、自分が意図しない理解を
相手に促していたのだということに気づく。

 言葉は、出したら、そこから新しく生まれる。

メールを送信したら、終わりではなくて、そこから
始まるものもある。

「言葉が育つ」っていう感覚。

でも、これはとどのつまり
人の気もちの問題なんですよね
ということに、知人の文章から気づかされるのだが。


昔、先生がいっていたことがいまさらわかるとか、

昔読んだ本のフレーズが、ふとした瞬間に急に
思い出されて、意味を理解する。

日々の「わからない・・」や「なんで?」の中で、
確実にわかるというか、「気づく」に向かって、
自分の中で、育まれているいる言葉がある。

だから、今日も、言葉の種を蒔いてみようとおもう。

時間という水に、花をさかせるのは、他ならぬ
言葉にふれている自分自身なのだ。